有名な芸術

禅と茶道

芸術や工芸品の歴史は、茶道の発展に大きな影響を受けました。裕福な家は、社交の場で豪華な中国製の茶道具をひけらかしていたのですが、16世紀になると、こういった美意識に変化が見られ、よりシンプルな方向に向かい始めました。

シンプルで装飾のない茶道具が、よりハイクラスなものとして認識され始めました。政治指導者であり、日本軍の指導者でもあった豊臣秀吉(1537~1598年)と、その茶道の師だった千利休の支援により、茶道は日本の建築様式における重要な要素となりました(1522~1591年)。

利休は「わびさび」という言葉を好んで用いました。禅に由来するこの概念は、不完全さと無常の哲学に関連しています。例えば、派手な色の絵の具よりも落ち着いたアースカラーを好む、ろくろを回して作られた壺よりも手で成形した不格好な形を好む、というような考え方がその例です。

利休の時代に続く、平和な江戸時代では、茶の湯人気が日本の工芸品に大きな影響を与えました。「わびさび」の美学は、織物、金工、金属品、陶磁器などの業界にも広がりました。茶道が日本の美術史にどのような影響を与えたかについては、「茶道の名工」をご参照ください。

陶磁器の発展

陶磁器の美しさと輝きは、世界的に有名です。しかし、1600年代に世界を魅了した、南国の「有田」という小さな村で生まれた名品については、あまり知られていないようです。

日本の陶磁器文化は、他の多くの文化と同じく、新石器時代にまでさかのぼります。「縄文時代」は、縄を使ってモチーフを陶土に刻み込んだことからその名がついています。

徳川幕府の江戸時代になると、現在のような近代陶磁器の製造が始まりました。徳川幕府の鎖国政策はよく知られていますが、海外との交易や旅行がほとんど禁止されていたため、日本は世界から孤立していました。

しかし、限られた範囲内での貿易は盛んでした。オランダの「東インド会社」は、長崎の限定された港で日本との貿易を許されていました。中でも有名なのが出島です。この島は、外国人の貿易商と日本人居住者を分離するために作られた人工島でした。

1592年に豊臣秀吉が朝鮮半島を征服すると、半島の陶工たちは日本に連れて来られました。有名な李参平(1655年没)もその一人です。彼は長崎に近い有田で天然の粘土を発見し、村人に技術を教えようとしたと伝えられています。有田には彼を祀った神社もあります。